主講人:高木博志(日本京都大學人文科學研究所教授兼所長)
講 題:近代における日本美術史の成立
1889年には東京・京都・奈良に三帝国博物館の設置が決まり、帝国博物館はヨーロッパの博物館を参照しつつ組織を整えていった。1887年に東京美術学校が設立され、まだ20代の岡倉天心が初代校長となった。「美術」の制度化は、フェノロサの欧米からの美術理論の移入にはじまり、帝国博物館初代総長の九鬼隆一や岡倉天心が中心となって、21万点にのぼる文化財について臨時全国宝物調査(1888年~1897年)を行うことで、ジャンル・等級・年代・作者など今日の「美術史」の基本的な枠組みが確立した。
岡倉天心は、東京美術学校でおこなった「日本美術史」の講義の中で、今日でいうところの飛鳥文化―白鳳文化―天平文化―弘仁・貞観文化―国風文化―鎌倉時代といった時代区分を提唱した(1891年度、『岡倉天心全集』4 )。古都奈良に関わっては、法隆寺釈迦三尊像に代表され中国六朝文化の影響をうけた飛鳥文化、法隆寺金堂壁画にインド・ギリシャ風美術をみる白鳳文化、国際色豊かな盛唐文化の影響をうけた東大寺戒壇院(かいだんいん)四天王像や正倉院のガラス工芸などを標準作とする天平文化といった、歴史認識を示した。古都京都の平安時代は、平安遷都(794年)後の密教の弘仁・貞観文化、後半は「純然たる日本風」で優美な貴族文化が栄え、絵師金岡(かなおか)、仏師定朝(じょうちょう)といった芸術家を輩出した国風文化にわけられる。この10世紀以降の国風文化が、ナショナル・アイデンティティとなり、かつ京都イメージとなってゆく。そして日清戦争後のナショナリズムの勃興期の1897年に、最初の文化財保護法である古社寺保存法が制定され、国宝(National treasure)概念がはじめて成立した。
このように古代から近代までの時代区分は、歴史学に先んじて、美術史においてまず成立した。それは、国際社会の外交や博覧会において、視覚に訴える美術の影響力が強かったためである。実際、「日本美術史」がはじめて活字の書物となるのが、パリ万国博覧会に向けて編纂されたHistoire de L'art du Japon,1900であった。日本語ではなくフランス語の自画像であった。
授業では、ヨーロッパ各国の文化はギリシャ文明から派生したとする19世紀の世界史認識が、奈良をギリシャに重ねる言説を生み出したことや、近代日本における中国文明観にも言及する。すなわち近代日本における「古代」の意味を考えたい。
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