7世紀から9世紀にかけて計20回ほど遣唐使が派遣されている。その中で、第一回から第七回までが前期、第八回から第二十回までが後期に区分される。遣唐使は中国との文化交流、中国文化の日本伝来のほか、当時の東アジア情勢の中で重要なポジションを担っていた。当時の遣唐使の意義を深く検討していくため、当時の歴史的背景や遣唐使自身が記した文章などをもとに、さらに分析を進めていく。
遣唐使のルートは北ルートと南ルートがある。前期は主に北ルートを使っていた。前期遣唐使の主な目的は政治的要素を含んでいたため、渡唐のほか、朝鮮半島の新羅国への攻撃も目論見の1つであった。前期と後期の遣唐使政策の間には31年間の空白期間が存在する。その空白期間は当時日本が直面していた内憂外患の状況がもたらしたものであった。しかし、その結果日本の国力は増大し、律令国家へと発展した。後期遣唐使の派遣は南ルートへ変更された。唐の政治は安定していたため、遣唐使のほか、多くの留学生や僧侶を派遣して中国の文学や文化を学ばせた。また、遣唐使は揚州へ行く者と長安へ行く者に分かれた。
中国へ献上された貢ぎ物から日本が中国を重視していたことがわかる。また、遣唐使の最重要の目的は唐との外交関係の構築であったが、さらに中国文化を取り入れようとしていたことも推測できる。日本は中国文化を基礎にして、それが溶け込み、現在の日本文化となっている。
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