「日本の鎖国と開国」国際シンポジュウム |
【開幕式】 |
致 詞:朱德蘭(中央研究院人文社會科學研究中心研究員兼副主任)
徐興慶(臺灣大學日本研究中心主任)
2015年6月27日、「日本の鎖国と開国」国際シンポジュウムが中央研究院において開催された。開幕式ではまず、中央研究院人文社会科学センターの朱德蘭副主任及び台湾大学日本研究センターの徐興慶教授よりごあいさつ、朱副主任はとくに歓迎の意を表し、今回のシンポジュウムを通して台湾大学日本研究センターとの連携ができることに喜び申し上げた。
当日、中央研究院人文社会科学研究センターで国内外の学者が集まり、鎖国という江戸幕府の対外政策について新たな角度から新見を提出し、学際的・人文的交流が行われた。
本日の講演は4セッションに分けて、各講演の題目と内容は以下のように要約する。
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【Session 1】 |
主持人:辻本雅史(臺灣大學日本研究中心執行委員)
報告人:藤井譲治(京都大學名譽教授)
講 題:「鎖国」の捉え方―その変遷と現在の課題―
摘 要:
本報告は、これまでの「鎖国」の捉え方とその変遷に焦点をあてる。その一つは「鎖国」形成の政治過程とその崩壊の展開である。もう一つは「鎖国」の国家の外交体制と国家体制の特質である。「鎖国」の捉え方の変遷は以下の7つに分けて論じる:1.ケンペルと志筑忠雄―鎖国肯定論― 2.日本の近代化と「鎖国」得失論 3.封建制再編と「鎖国」 4.「東アジア世界」と幕藩制国家論 5.「四つの口」と幕藩制国家 6.「鎖国」と「海禁」 7.地球的世界への対応。
最後に、藤井教授は「鎖国」論の流れと若干の展望を述べた。より高次元の課題として「鎖国」とそれを取り巻く世界情勢の捉え方の問題がある。国家を軸とする捉え方に対し、東アジア海域、さらに広くは地球的規模での海域世界のあり様とその変化・動向にも目を配らねばならない。
報告人:横山伊德(東京大學史料編纂所教授)
講 題:太平洋世界と近世日本の変容
摘 要:
本報告では、中井信彦『転換期幕藩制の研究』(1971)を出発点とし、近世後期の日本の変容を、太平洋をめぐる対外関係(物流)の観点から、以下の四期に分けて辿る。(第I期)日本の銀輸入と太平洋銀流通、及び俵物(煎海鼠)と太平洋のナマコ、(第II期)太平洋世界からみるラッコ毛皮交易とロシア・日本、(第III期)無二念打払令と太平洋捕鯨、太平洋リムの形成、(第IV期)アヘン戦争後と太平洋。
近世中期以降の日本社会の動きは、日本をとりまく太平洋の物流に深く関係していた。その物流は、中国市場へ流れ込む物流に対応した18世紀段階から、中国市場を一つの極として、太平洋各地の物産交易を他の極とした19世紀段階へと展開している。横山教授は開国・開港を前提とした物流の展開とそれへの日本社会の対応、及びその物流の変容に対する理解の重要性を強調した。
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【Session 2】 |
主持人:張啟雄(中央研究院近代史研究所研究員)
報告人:W.J.BOOT(荷蘭萊登大學區域研究所名譽教授)
講 題:オランダ側の資料から見た江戸幕府の外交政策
摘 要:
オランダの商人が出島に移されてから、「鎖国」という制度は2世紀強の間、継続した。ボート(Boot)教授は、江戸幕府は東アジアのデフォールト政策に戻ったと述べた。すなわち商業蔑視と、中国の優越と経済の自給自足の通念を前提とし、外国との交流を最小限に押さえて儀礼の形に填め、外国との貿易は国家の監督の下で国家の決めた規則したがって行い、目的は貿易での収入ではなく、「野蛮人」をなだめ統制するというものであった。
オランダ側の資料によれば、日本は自足的な国で、外国貿易は本当は不要あると認識しており、オランダ人もそれは分かっていた。オランダ商人が長崎に置かれた状態は、「奇妙」としか特徴付けることができない。ボート教授は、その奇妙な妥協は全て幕府の監督の下に行われたが、2世紀強続いたので、非現実的で不合理だったとは言えないと述べた。オランダは日本との貿易を継続することは、阿部重次が言ったように、「日本を愛するのではなく、お金を愛するため」であっただろうと思われている。
報告人:林泉忠(中央研究院近代史研究所副研究員)
講 題:「開国」と「鎖国」の間:琉球と欧米三修好条約の主体性再考
摘 要:
林泉忠先生的報告以晚琉及東亞處在從「鎖國」走向「開國」微妙時期琉球國與歐美三國所簽訂的三份國際條約,即一八五四年的「琉美修好條約」、一八五五年的「琉法修好條約」及一八五九年的「琉蘭修好條約」為研究對象,探討簽屬過程與條約內容中所彰顯的包括「獨立自主」在內的主體性意涵。
林泉忠先生認為從社會認同變遷的視角而言,過去琉球作為一個具有自主能力的國家形象因三條約的簽署而得以強化,此形象無論是在二十世紀還是二十一世紀沖繩社會在追求強化「琉球/沖繩人」意識的時空下,成為被記憶、被想像、被建構的鄉愁元素,並與其他元素匯為一股整合社會、影響沖繩社會走向的力量。
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【Session 3】 |
主持人:于乃明(政治大學日文系教授)
報告人:劉序楓(中央研究院人文社會科學研究副研究員兼亞太區域研究專題中心執行秘書)
講 題:「鎖国」体制下における日中交流―漂流・漂着船を通してみる
摘 要:
鎖国体制下の日本では、長崎貿易ルートのほか、頻繁に発生した漂流と漂着事件の処理も日中交流の場を提供した。日中両国間の漂流民の救助・送還を通して、政治・貿易・文化交流・情報収集など、さまざまな活動が絡み合っており、漂流事件の処理を通して複雑な一面を窺うことができる。また、漂流民の送還を契機に、国家間の交流やそれを通じた対外関係の構築が可能であった。
しかし、アヘン戦争の結果、中国が開港を強いられたことによって、東アジアの伝統的漂流民送還制度も変化を余儀なくされた。漂流民の送還を利用して、西洋諸国が日本と通商交渉を求めることが頻繁に発生した。1854年日米和親条約の締結後、諸国間の海難民救助と送還活動が条約によって規定され、東アジアの伝統的漂流民送還制度も終焉を迎えた。
報告人:朱德蘭(中央研究院人文社會科學研究中心研究員兼副主任)
講 題:近代長崎華僑社会の変容(1859-1945)
摘 要:
鎖国体制下の日本では、貿易のために長崎の唐人屋敷に居留する唐船の乗組員がいたが、このような季節ごとに変動する華人グループは、華僑社会コミュニティと見なすことはできない。1859年の安政開港以後、長崎に五、六百人規模の華僑社会が形成された。1899年在留華人の内地雑居が許可されて以降、華僑人口は千余名まで増加した。その大半は商人であった。
長崎華商団体の国家意識と居留地意識、長崎華商と日本人との交流活動、華僑学校の中国教育と日本教育の三項目に対し実証的な分析を行った結果、中国伝統の年中行事などの団体活動や日本での公共事業などの社会活動の参加によって、自国意識を強調しながら、日本社会に溶けこむことを求めたことがわかった。また、華僑児童に祖国意識を持たせることが重要視されたが、将来の進学に有利となるために、華僑学校では北京官話・日本語・英語が教授されたことも明らかになった。
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【Session 4】 |
主持人:徐興慶(臺灣大學日本研究中心主任)
報告人:陳瑋芬(中央研究院中國文哲研究所研究員)
講 題:幕末明治期における概念の変遷―「自然」・「文明」・「哲学」を例として
摘 要:
本報告は、nature、civilization、philosophyの訳語の「自然」「文明」「哲学」を例として、三つの言葉の意味変化の過程を明らかにし、そういった新しい言葉がどのように近代の中国と日本の知識のコンストラクションを成り立たせたのかを考察する。
外国から輸入した新しい観念を従来の言葉で呼ぼうとすることは、新来の観念を旧来の観念に対比して理解することを意味している。二つの観念に多少の隔たりがあったとしても、その内容に多少の増減修正を加えられ、従来の言葉がそのまま新しい観念の名辞として受容されて定着した。新造語の「哲学」に対し、「自然」「文明」は既存の漢語の中から選択された訳語である。その三つの言葉はいずれも適切な訳語なので、新語として急速に広まり、中国へも逆輸入されるようになった。
報告人:藍弘岳(交通大學社會文化研究所副教授)
講 題:「開国」と儒教―会沢正志斎の経学、日本古代史論と「国体」論の創出
摘 要:
幕末知識人が唱えた「王政復古」は形式だけで、古代日本の律令国家体制に回帰するのではなく、「神武創業の始め」までに回帰し、祭政一致の体制を建てようとしていた。この背後には後期水戸学の「国体」論の影響が大きい。本報告は、会沢正志斎の「国体」論に関わる祭祀と戦争の部分に焦点を絞って、彼の経学とその古代日本史論との關係を考察した。
会沢は方法的に徂徠学を踏まえ、忠孝道徳の実践という観点から祭祀儀礼が持つ政治意味を論じている。さらに、会沢は古代日本史で経書に附会して解釈を行っているのみならず、逆に経書の知識(「漢土之教」)を古代日本史(「神州之道」)の解釈にも使っている。こうしたことによって、彼はある種の独特な言説(議論の方法)を発明し展開している。その言説は幕末思想家と維新官僚の背景的知識になり、それで復古的で文明に相応しい国家体制を創出したと考えられる。
報告人:張寅性(韓國首爾大學政治外交學部教授)
講 題:開国の論理と心理―横井小楠精読
摘 要:
横井小楠は『夷虜応接大意』において、「有道の国」は受け入れ「無道の国」は拒絶すべきという道義の有無に基づく応接の原則を提示した。『夷虜応接大意』を「有道無道」の普遍的原則に基づく国際平等観念を開国の論理として提示した先駆的テキストと捉え、横井小楠が普遍的道義観念を持ちだして鎖国論から開国論へと転じたというのは丸山真男以来の見解だが、それについては再考の余地があると考える。
『夷虜応接大意』『読鎖国論』「吉田悌蔵宛書簡」を見通すと、小楠が鎖国論から開国論への転換過程では、絶えず普遍主義的道義観念が働いていたことが判明する。その政策的転換は、鎖国空間においても既に普遍主義的道義観念が用意されていたために可能であった。また、『夷虜応接大意』における「有道無道」という道義的原則は、「夷虜」への強固な拒絶の心理から持ちだされたものであり、政治的レトリックとして機能した面もある。
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【綜合討論 & 閉幕式】 |
主持人:朱德蘭、徐興慶
各学者の報告が終わった後、徐興慶主任の司会で学者たちは熱いディスカッションをして、最後に朱徳蘭副主任のスピーチでシンポジウムは幕を閉じた。
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