【國際關係領域】 |
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主講人:松原一樹(公益財團法人日本台灣交流協會新聞文化部長)
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【語學領域】 |
主講人:高田智和(國立國語研究所准教授) 本節課程中,將針對日文表記方式的複雜性,來講述其構成的要素與原因,講者也將分享過去進行《例解辭典》的改訂工作之經驗。日文的表記被稱為是世界上最複雜的表記方式。包含文字種選擇、送假名(跟在漢字後面用來指示前面漢字的詞性或讀音的假名)、假名遣(假名的使用方法)、外來語的表記、同音異義語及異字同訓、漢字的字型等要素。這些現象雖然也會出現在其他語言的表記中,但是全部同時發生則是日文表記的特徵,也是複雜原因的所在。另外還有〈送假名的標記方式〉、〈現代假名遣〉、〈外來語的表記〉〈常用漢字表〉等當代日文表記的基準,但其基準本身的雙重標準,也是表記的不一致(複雜性)仍舊存在的要因。 表記辭典是基於當代日本語表記的基準,收集那些容易混淆的詞語,明示其適當書寫方式的辭典。配合2010年11月〈常用漢字表〉的改訂,講者對《例解辭典》進行了改訂。主要是對追加漢字的196字的做了增補,同時將常規的詞語代表表記從假名改為追加漢字的表記方式,並新增收錄了使用追加漢字的詞語等等。作為實例收集及詞語例採用的參考,使用了當時尚在開發的《現代日本語書き言葉均衡コーパス》語料庫。雖然不是完全基於語料庫來進行改訂,但在製作字典辭典時語料庫是非常有用的工具。 |
【文學領域】 |
主講人:小林直樹(大阪市立大學文學研究科教授) 本節的課程內容,將以無住道暁(1226-1312)為例,探討鎌倉時代(13世紀)與說話傳承文學有深刻關係的遁世僧如何接受由入宋僧傳入的佛經,並在其著作中融合發展。 在眾多的宋刊佛書裡,本課程將以活躍於五代宋初的智覺禪師延壽所寫的《宗鏡錄》100卷為題材。企圖整合多元佛教思想的《宗鏡錄》由於符合鎌倉時代遁世僧各宗兼學的志向,因此不止禪宗也廣泛地被各宗派所接受。 講者將以《沙石集》的序文與〈無嫉妬之心人事〉、〈依愛執成蛇事〉(米沢本・第九卷)等說話及評語為素材,來分析當時的遁世僧之中,與說話傳承文學的世界關係最深的說話集《沙石集》作者無住是如何解讀《宗鏡錄》的。藉此聚焦當時新傳入的知識與思想對遁世僧所造成的影響,以及對說話傳承文學的世界所帶來的文藝發展。 |
【歷史領域】 |
主講人:甘懷真(臺灣大學歷史學系教授暨日本研究中心執行委員) 漢文對於東亞的重要性不用多強調,過去如此,未來也是。若我們要說東亞有什麼共同的文化遺產,肯定前幾名就數到漢文。而今天使用漢文作為共同語的最大國家是中國,除此之外就是日本。 講者的專業是東亞古代政治史,所以從這個立場,為學員講解漢文的成立與流傳,及其所產生的歷史作用,尤其著重於漢文與日本。今天我們對於日本漢文的理解,過度受到當代國語運動的影響,尤其是其中本國語與外語的概念。作為學術課題,我們應努力把該研究拉回歷史脈絡。日本漢文的受容是「中國的天下」發展的一環,對於古代的日本(倭國、大和)而言,漢文是作為「天下的共同語」而被受容,且與東亞的其他地域相同。漢文傳入日本不是以外來語的形式。只是,隨著古代日本王權的發展,即大和王權,從固有語而來的另一套共同語之和語也同時形成,於是有了日本漢文的特殊現象,尤其是漢文訓讀。本講會更多討論這些特殊的漢文現象。又在這個過程中,因佛教傳來而導入了印度文化,為日本帶來了音韻學知識,於是有假名的發明。我們也會說明第十世紀以後東亞普遍發生的國語運動對於日本語形成的作用。 |
【文化領域】 |
主講人:黃士娟(臺北藝術大學建築與文化資產研究所副教授兼所長) 日治時期在官方主導之下,大量興建帶有西洋建築語彙的公共建築,以呼應新的統治者展開的新時代,同時也引入日本宗教神道教,這批類型頗多之洋風公共建築與和風的神社建築,成為臺灣各城市重要地標。 日治時期政治核心為總督府與其官廳建築群,總督府以其政治地位座落於臺北城內重要位置,其周遭分布各官廳,形成統治中心,其次為位於官廳周邊的熱帶醫學研究重鎮的臺北醫院,以及執行近代法治觀念的法院,代表著殖民統治者以科學、文明、法治經營臺灣。 過去知識取得途徑從傳統書院師徒制,日治則改為學校和圖書館,學校和圖書館之建築形式多以洋風建築形式為主,並且因應臺灣氣候、天災,採用造價較高但堅固耐用的磚構造、鋼筋混凝土造,圖書館則有異於過去私人收藏的圖書室,提供一個自由獲取知識的殿堂,打破傳統社會中少數人獲教育的狀況,教育的普及和提升,讓更多人民掌握知識,成為近代市民社會中的一份子。傳統城鎮、聚落的公共空間通常為廟前廣場,而日治之後,各地陸續興建公會堂,活動內容多樣化,成為新興市民活動場所,日治時期引入日本神道教,初期以日本人為主,至日治末期,國家神道推動集體參拜,成為老一輩幼時記憶。 自荷西時期開始雖曾出現洋式建築如教堂、城堡,清朝洋務運動也引入洋式建築,但經由受正規建築教育的建築技師進行設計,卻是日治時期才開始,在統治者的政策下,臺灣並非走向全面日本化,而是以近代化為主,這也是為何日治結束數十年之後,公共建築仍廣為市民所用,並成為文化資產。 |
【国際関係領域】 |
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講 師:松原一樹(日本台湾交流協会新聞文化部部長)
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【語学領域】 |
本発表では、日本語表記の複雑さについて、その要素と要因について述べる。また、発表者がかつて行った表記辞書『例解辞典』の改訂について述べる。 日本語表記は世界で最も複雑であると言われている。文字種選択、送り仮名、仮名遣い・外来語の表記、同音異義語・異字同訓、漢字の字形などの要素があるが、これらに類する現業は、他言語の表記でも起こり得るものである。しかし、これらがすべて同時に発生するのが日本語表記の特徴であり、複雑さの要因である。また、「送り仮名の付け方」「現代仮名遣い」「外来語の表記」「常用漢字表」など、現代日本語表記の基準となるものがあるものの、基準自体がダブルスタンダードであるため、表記のゆれ(複雑さ)が維持される要因になっている。 表記辞書は、現代日本語表記の基準に基づいて、どう書いたら良いか迷いそうな単語を集めて、適切な書き方を示した辞書である。2010年11月の常用漢字表の改定を受けて、発表者は『例解辞典』の改訂を行った。主に、追加漢字196字種を増補するものであったが、従来の掲出語の代表表記を仮名書きから追加漢字書きに改めたり、追加漢字を用いる単語を新たに収録したりした。用例収集と単語例採用の参考として、当時開発中の『現代日本語書き言葉均衡コーパス』を利用した。完全コーパスベースの改訂とはならなかったが、辞書作りにおいてコーパスは有効なツールである。 |
【文学領域】 |
講 師:小林直樹(大阪市立大学文学研究科教授) 本発表は、鎌倉時代(13世紀)に入宋僧が日本に将来した宋代の刊行仏書を、説話伝承文学の世界にゆかりの深い遁世僧が、いかに受容し、自らの著作の中にいかに結晶させていくのか、無住道暁(1226-1312)の場合を例に考察しようとするものである。 数ある宋刊仏書の中でも、本発表で中心的に扱うのは五代宋初に活躍した智覚禅師延寿の著『宗鏡録』100巻である。多元的な仏教思想の統合化がはかられた本書は、諸宗兼学的な鎌倉時代の遁世僧の志向によく適い、禅のみならず広く諸宗で受容された。 当時の遁世僧の中でも説話伝承文学の世界にもっとも関わり深く、説話集『沙石集』の著者として知られる無住が、『宗鏡録』をどのように受け止めたのか、『沙石集』の序文と「嫉妬の心無き人の事」「愛執によりて虵に成りたる事」(米沢本・巻9)の諸説話および評言を素材として考察する。それによって新来の知識や思想が遁世僧に与えた影響と、説話伝承文学の世界にもたらした文芸上の展開とに光を当てたいと考える。 |
【歴史領域】 |
講 師:甘懷真(臺灣大學歷史學系教授暨日本研究中心執行委員) 東アジアにおける漢文の重要性は、これまでもそうであったように、また今後もそうであるように、自明のことである。東アジアに共通する文化遺産といえば、まず間違いなく漢文であろう。そして、現在漢文を共通語として使っている最大の国は中国、それ以外には日本もそうである。講演者の専門は古代東アジア政治史ということで、その立場から、漢文の成立と伝達、歴史的役割について、特に漢文と日本を中心に解説する。今日の日本漢文に対する私たちの理解は、近代の国語運動の動き、特にその中での現地語や外国語の概念に大きく影響されている。学問としては、その研究を歴史的な観点に引き戻す努力をしなければならない。日本漢文の受け入れは「中国の天下」の発展の一環であり、古代日本(倭国、大和)にとっては「天下の共通語」として受け入れられた。これは東アジアの他の地域と同じであった。日本に漢文が導入されたのは、外国語という形ではなかった。しかし、古代日本の王権であるヤマト王権の発展に伴い、固有語から別の共通言語と和語が同時に形成され、それによって日本の漢語、特に漢語訓読という特殊な現象が生じたのである。この講演では、これらの特殊な漢文の現象について、より詳しく話をする。その過程で、仏教の影響でインド文化が伝わり、音韻学の知識が日本に伝わり、仮名が発明されることになった。また、10世紀以降に東アジアで起こった国語運動が、日本語の形成に果たした役割についても説明する。 |
【文化領域】 |
講 師:黃士娟(臺北藝術大學建築與文化資產研究所副教授兼所長) 日本統治時代には、統治者が展開した新時代の到来と日本の宗教である神道の導入に対応して、西洋建築の名称を持つ公共建築が政府の下に数多く建設された。これらの洋風の公共建築物や日本風の神社建築物は台湾の各都市の重要なランドマークとなった。 日本統治時代の政治の中心は総督府とその官舎であり、総督府や政治の拠点は台北の要所に位置し、その周辺に官舎が分散して統治の中心を形成した。熱帯医学研究の一大拠点である台北病院、近代的な法治概念を施行する裁判所などがあり、科学文明、法治の方面から台湾が経営されていた証であった。 知識習得の手段は、伝統的な師弟制の学校制度から、日本統治時代には学校や図書館のような洋風建築が主流となり、台湾の気候や自然災害に対応して、より高価で耐久性のあるレンガ造りや鉄筋コンクリート造りの建物が建てられるようになった。図書館は、これまでの個人のコレクションとは異なり、知識への自由なアクセスを提供し、伝統的な社会における少数の特権階級のための教育の現状を打破し、教育の普及と充実を図った。それによって、より多くの人々が知識を獲得し、現代の市民社会の一員となることができた。 町や集落の伝統的な公共空間といえば、お寺の前の広場が一般的であったが、日本統治時代以降、各地に次々と公会堂が作られ、活動が多様化し、新たな市民の拠点となった。この時期にも日本の神道が導入された。初期は日本人が中心であったが、後期には、国家神道が集団参拝を推進し、高齢者時代の若かりし頃の記憶となった。 オランダ統治時代から教会や城などの洋風建築物が建てられ始め、清の洋務運動によって洋風建築物が取り入れられたが、正式な建築教育を受けた建築技術者が設計を行うようになったのは日本統治時代に入ってからである。統治者の政策の下、台湾は完全な日本化ではなく、近代化に向かったのである。だからこそ、日本の統治が終わって数十年経った今でも、公共建築物は広く市民に利用され、文化財になっているわけである。 |