孝道徳は、日本においては軍国教育につながった過去があったため、これまで否定的に捕らえられて来た。しかし、江戸時代をその時代の目からありのままに捉えるためには、孝という、江戸時代には全ての人が善だと考えていた道徳が持っていたエネルギーは無視できない。従来の考えを180度転換して、「孝は江戸文化の中心であった」と考える必要がある。
とくに、江戸時代に盛んだった孝子表彰は、大きな役割を果たした。孝の実践という道徳行為、孝子表彰という政治行為、孝子伝を書くという文学行為など、複合的な文化的な動きの起爆剤となったからである。
江戸時代の孝子表彰のうち、駿河国五郎右衛門や、山梨の偽キリシタン兄弟など、いくつかの興味深い例を示して、その起爆剤としての役割を明らかにする。
しかし現代、日本で孝子表彰がほとんど行われていない。そこに至るまでの紆余曲折は、単に「軍国教育への反省」説明できるものではない。じつは、昭和50年代に、各地で孝子表彰制度が復活したことがある。しかしそれも、現在はてしまった。そこでは軍国主義復活への警戒よりも、「個人情報保護」「平成の大合併」という理由の方が大きかった。
現在一箇所だけ残っている山口周南市の例や、孝子表彰が新聞で批判された茨城県小美玉市の例などを挙げて、戦後日本と孝との関わりを明らかにする。