台湾は清の時代に、瘴癘の地と言われ、近代的な施設を持たなかった。1895年の日本統治開始以降、医療、教育、そして農業の分野が優先的に改革され、それから徐々に軽工業時代に入り、近代国家が建設された。
以前の台湾は衛生観念に欠け、現代的な医療施設がなかったため、日本から数名の医師を招き、西洋医学体制作りと現地の医師育成のため、医学学校を設立し、積極的に公衆衛生観念を普及させた。教育の面では、初代総督府学務部長の伊澤修二が、台湾全土に近代的な知識を学習するための国語伝習所の設立を計画し、後に全土の師範学校の前身となった。それ以来、専門的な農業、商業、工業学校、さらに高等教育機関や帝国大学が設立された。農業の面では、農林学校の設立、農業改革技術の養成、農業経済の人材育成、台湾作物の品質の向上、農業経済の発展をめざすで基盤を確立した。
このような開発過程において、日本政府と台湾総督府による多額の資金投資に加えて、兒玉総督時代の民政長官であった後藤新平が非常に重要な役割を果たし、台湾の全体的な建設に関する青写真を描いた。さらに彼は、人物をよく知りその才能をうまく使うことができ、その後の台湾開発に貢献できる人材を選んだ。彼らは公的領域においても私的領域においても、優れた業績を上げた。
当時の在台日本人が持っていた理念は「利他主義」であった。彼らの役職を完璧に果たそうとする使命を持ち人類社会の幸福の構築に永遠の足跡を残したいと願っていた。終戦後は平和な時代に入ったが、過去に築かれた基礎がすべての建設の元になった。したがって、我々は「飲水思源」という言葉を忘れてはならず、日本統治時代に一から台湾を建設した強靭な精神を学ばなければならない。
中国人曰く「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」。後藤新平曰く「金銭を残して死ぬ者は下だ、仕事を残して死ぬ者は中だ、人を残して死ぬ者は上だ」。この2つの言葉は全く異なる価値観のように見えるが、本当の「名」は後世による評価であり、自己追求のためではない。そのため、我々れは価値観や思想から変革を求めることが、未来を作ることにつながると信じよう。