台日文化交流教室(17):誰改變了台灣島-日本殖民時代的五十年-
活動花絮
日期:2018.12.7 | 單位:臺灣大學日本研究中心
   

   
誰改變了台灣島-日本殖民時代的五十年-
日期:2018.12.7 | 單位:臺灣大學日本研究中心

  台灣在清屬時代仍為瘴癘之地,亦乏現代化的設施。迄1895年日本領台之後,才從醫療、教育、農業領域優先規劃,然後逐步進入輕工業時代,建設成現代化的國家。

  由於台灣過去沒有衛生觀念,亦無現代化醫療設施,後來才從日本邀聘一些醫師來台,建立西醫診療體制,設立醫學校培訓本地的醫師,並積極推動公共衛生觀念。在教育方面,首任總督府教育長伊澤修二規畫台灣各地開辦國語傳習所,以培養現代化知識,後來即發展為師範學校。此後又開設專門的農業、商業、工業學校,以至高等學校、帝國大學。在農業方面,設立農林學校,培養農業改良、農業經濟的人才,改良台灣農作物的品質,推動農業經濟的發展,建立了紮實的基礎。

  在這段開發的過程中,除了日本政府和台灣總督府挹注大量資金投入建設之外,兒玉總督時期的民政長官後藤新平扮演了相當關鍵性的腳色,他規劃了台灣整體建設的藍圖,而且知人善任,推舉了很多日後建設台灣的功臣。他們無論在官方的職務上,或是個人的貢獻上,都有卓越的成就。

  當時在台日人所抱持的就是「利他」的理念,以及忠於職守的精神,而為人類的福祉及社會建設留下永遠的事蹟。終戰後進入承平的時代,但是仍然以過去的基礎持續所有的建設。因此我們必須要飲水思源,師法日治時期從無到有建設台灣的精神。

  中國人說:「虎死留皮,人死留名。」,然而後藤新平的名言是:「金銭を残して死ぬ者は下だ,仕事を残して死ぬ者は中だ,人を残して死ぬ者は上だ。」這是完全不同的價值觀。「名」是後世的評價,而不是自我追求的所得,因此我們必須從思想上、價值觀尋求改變,才能創造未來。



 台湾は清の時代に、瘴癘の地と言われ、近代的な施設を持たなかった。1895年の日本統治開始以降、医療、教育、そして農業の分野が優先的に改革され、それから徐々に軽工業時代に入り、近代国家が建設された。

 以前の台湾は衛生観念に欠け、現代的な医療施設がなかったため、日本から数名の医師を招き、西洋医学体制作りと現地の医師育成のため、医学学校を設立し、積極的に公衆衛生観念を普及させた。教育の面では、初代総督府学務部長の伊澤修二が、台湾全土に近代的な知識を学習するための国語伝習所の設立を計画し、後に全土の師範学校の前身となった。それ以来、専門的な農業、商業、工業学校、さらに高等教育機関や帝国大学が設立された。農業の面では、農林学校の設立、農業改革技術の養成、農業経済の人材育成、台湾作物の品質の向上、農業経済の発展をめざすで基盤を確立した。

 このような開発過程において、日本政府と台湾総督府による多額の資金投資に加えて、兒玉総督時代の民政長官であった後藤新平が非常に重要な役割を果たし、台湾の全体的な建設に関する青写真を描いた。さらに彼は、人物をよく知りその才能をうまく使うことができ、その後の台湾開発に貢献できる人材を選んだ。彼らは公的領域においても私的領域においても、優れた業績を上げた。

 当時の在台日本人が持っていた理念は「利他主義」であった。彼らの役職を完璧に果たそうとする使命を持ち人類社会の幸福の構築に永遠の足跡を残したいと願っていた。終戦後は平和な時代に入ったが、過去に築かれた基礎がすべての建設の元になった。したがって、我々は「飲水思源」という言葉を忘れてはならず、日本統治時代に一から台湾を建設した強靭な精神を学ばなければならない。

 中国人曰く「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」。後藤新平曰く「金銭を残して死ぬ者は下だ、仕事を残して死ぬ者は中だ、人を残して死ぬ者は上だ」。この2つの言葉は全く異なる価値観のように見えるが、本当の「名」は後世による評価であり、自己追求のためではない。そのため、我々れは価値観や思想から変革を求めることが、未来を作ることにつながると信じよう。