台日文化交流教室(13):從我的日語邂逅漫談台日文化
活動花絮
日期:2017.12.15 | 單位:臺灣大學日本研究中心
   

   

   
從我的日語邂逅漫談台日文化
日期:2017.12.15 | 單位:臺灣大學日本研究中心

  我的人生路上最重要的邂逅,莫過與日語的相遇。或著該說,與日本的邂逅會更加適合。即使說這型塑了我這個人也不為過。這也是理所當然,因為我從小學到舊制中學四年級這段時間的求學歷程都接受日語教育。

  運氣很不好地,在人成長過程中發育最盛、食慾也最旺盛的青少年時期正好進入二十世紀最大的戰爭時期,轉為一切以軍需優先的日本社會把食物、衣物、日用品等物資全部改採配給制度,民間很快地各種物資缺乏,雖不致餓死,但直到1945年終戰前都是過著極端的稀缺生活。本次講演也談及了這段時間的經驗。

  我出生時是日本人,很自然地幼少期都是以日語度過,但終戰後的台灣情勢使我不得不再學習台灣話與北京話,鍛鍊三種語言的能力。

  戰後回到台灣,一開始先在中學、高中先擔任書記一職,一年三個月後服中華民國初次實行的義務兵役,在軍隊生活中和中國話「邂逅」,這次經驗成為學習在此後生涯中不可或缺的中國話的機會。

  然後就是與「友愛會」邂逅。因為加入這個會的緣分,托福得以重新好好學習日語。更重要的是因此和許多的台日人士交流,獲得了數不清的友誼緣分。

  本次演講也是友愛會牽引的緣分讓我們得以邂逅。友愛會是我們生涯學習的場所,也是和人群交流的據點。

 私の人生途上において最も重要な“邂逅”は日本語でした。というよりも日本との邂逅と言った方が適切だと思います。これが私の人間形成の要素と表現しても過言ではありません。それもその筈、小学校から旧制中学4年間の求学は日本語だったからです。

 人間として最も発育・食欲の旺盛な青少年期は、不運にも二十世紀最大の戦争時代に入り、軍需優先の日本社会は食料・衣料・日用品などの物資全般に配給制度が敷かれ、急激に物資不足となり、餓死とまではゆかないが、極端な欠乏生活を終戦の1945年まで強制されるのでした。その間の体験を語ります。

 私は日本人として生まれ、先ず日本語で青少年期を過ごし、終戦後は台湾で台湾語と北京語を使用という三つの言語の習得を余儀なく強いられました。

 戦後は台湾に帰還するが、最初の仕事は中学・高校で書記として就職、15ヶ月後には中華民国最初の義務兵役に服役、軍隊生活で中国語と“邂逅”、この体験がその>後の人生に欠かせない中国語を会得する機会となったのです。

 そして“友愛グループ”との邂逅。このグループに入会したお陰で日本語を改めて学習できました。そしてより多くの台日の人々と数え切れないほどの人数の友人を得ることが出来ました。

 今日の講演会も友愛グループの存在がもたらしてくれた邂逅の一つです。友愛グループは私たちの生涯学習の場でもあり、多くの人々との交流の場でもあります。