人類の歴史の陰にはつねにドラッグの影がつきまとう。塩、砂糖、胡椒、酒、タバコ、茶、コーヒーといった調味料、嗜好品の延長にはコカインや大麻、アヘンが存在する。
東アジアも同様で、英国と清国の貿易不均衡に端を発したアヘン戦争(1840~42)の結果は長く清国、中国を苦しめた。
一方、日清戦争(1894~95)の結果、下関(馬関)条約で清国から台湾の割譲を受けた日本は、当時の台湾に存在した多数のアヘン中毒者患者の問題が、富国強兵の足がかり、食糧増産の拠点としたい意向の前に障害となった。
結局この問題では、総督府の民政長官、後藤新平がアヘンの専売制を敷き漸禁政策をとったが、一方で中毒者に与える「薬用アヘン」の必要に迫られた。
当時の大国、英国のインド・ペルシャ産アヘンを購入することで貴重な外貨を失うことを憂慮した日本は、江戸期以来、ケシ栽培の実績のある大阪の三島郡福井村(現在の茨木市)の篤農家、二反長音蔵の建白を容れ、自給自足の道を選ぶ。
アヘンはモルヒネ、ヘロインに精製される。第一次大戦以降、鎮痛剤としてケシ栽培は重要な軍需物資となった。台湾のアヘン中毒者は日本統治時代の50年間でほぼ根絶されたが、ケシ栽培はこうした時代の要請に伴い独自に発展、世界有数の規模となった。
一方、中国大陸でも軍閥によるアヘン利権の争奪があり、内戦の資金として勢力拡大に利用された。
台湾を軸に、日本、中国にまたがるアヘンからみる近代史を紹介する。