【政治領域】 |
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主講人:山室信一(京都大學人文科學研究所教授)
立憲主義對國家而言,旨在消除國家行為的失控和風險,維持民主主義的平衡。可細分為「人權的保障」和「權力分立」兩重點,以下將觀察各個時代的立憲主義:
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【文化領域】 |
主講人:劉建輝(國際日本文化研究中心教授)
近代的東亞是在相互借鑑.支撐下進行各自的文化轉型。本次課程便以近代兩百年的概念、語言、文學、旅行(移動)、文化(都市空間)來試圖重構中日文學與文化的歷史。 1810年代是近代的開端,廣州十三行的出現,代表了自由貿易體制的滲入。而基督教新教為了傳教編寫的媒材也從中國流傳到了日本,影響近代日語的形成。明治時代重新採用的漢文體,因為在敘事上、造語能力上有著比傳統日文優秀的特點,是當時的知識分子吸收西洋新知的來源。而這種漢文體讓梁啟超能夠迅速地將日語寫成的新知回流至中國,在中日概念與語言的交流上,可以發現雙方互為成立契機的特徵和借助他者的自我變革性。另外,東亞也在這時開始建立國民認同,日本透過對中韓的異化建立起對"日本"的國家意識。但中國也從日本學習到了國民思想改造的重要性,例如梁啟超便借用了日本「太陽」雜誌對國家水準的評價,探討中國國民的積弱之處。在文學上,除了梁啟超對小說的提倡之外,周作人對內在概念的提起也是近代重要的變革之一,20年代之後,受到日本無產階級文學的影響,中國轉向至階級文學。從移動上,由於東北、滿州國問題,使得日本希望盡量吸收內地人到滿洲旅行,日本便利用古典重新發掘了中國景點,使中國近代的景觀意識受到日本很大的影響。在文化上,日本承襲俄國的設計,將都市廣場變成權力中心,形成一種文化象徵。可以看出東亞在接受西方思想時,社會都會出現對其侵略與啟蒙的拉扯,相比日本的全面接受,中國則是掙扎前進。東亞內部的東方與西方,還有許多課題與可能性等著探討。 |
【宗教領域】 |
主講人:佐藤弘夫(東北大學教授)
日本怪談有著相當悠久的傳統,我們耳熟能詳的幽靈怪談其實是在江戶時代才大量出現。幽靈的形成關乎到日本墓葬制度的變遷、靈魂觀的轉換,以及現世與他世觀的改變。 中世以前的墓葬制度與近世不同,中世的墓葬制度採取匿名制,家的制度也尚未確立,如果是一般平民的話,只能把屍體放在路旁再舉行簡單的供養。再加上中世認為佛祖會迎接死者到其他世界去,所以中世以前並沒有掃墓習慣。中世後期,人們開始希望靈魂可以留在現世,比起無法捉模的他界,更希望能夠持續現世的生活。到了江戶時期,由於世道穩定和"家"觀念的確立,人們開始將死者埋葬在聽得到經文的寺院內,持續供養與造訪,除了將死者提升至祖先的高度之外,也是墳墓實名制的開始。可以說江戶時代將供養的主體從佛變成人,並以此與死者訂下不互相侵犯的契約,並要求生者要持續對死者的記憶。當生者破壞契約的時候,就是死者變成幽靈越界的開始。再加上沒有佛的救濟,導致江戶的幽靈傳說都必須要親自復仇之後才算完成。 雖然柳田國男曾說過自古以來的死者靈魂都留在我們身邊,但是從以上的探討,我們可以發現日本文化的固有性.嘗試其實是持續變動的,這也為我們帶來重新從比較文化論.地域論檢討日本文化的可能性。 |
【文學領域】 |
主講人:太田登(天理大學名譽教授兼台灣大學日本研究中心執行委員)
「見立て」就有如包巾一樣,能夠比喻.象徵任何東西。看不到的內在要用如何的外在表象來說明,會關乎到語詞、心境、形式的問題,也是和歌文學重要的一環。在此以「月」的比喻來探討和歌的「見立て」。 精選和歌名作編輯而成的『百人一首』中,關於「月」的和歌共計十二首。透過月亮的比喻,有寄託思鄉之情的,也有歌詠悲戀、孤獨等等的各種情境,百人一首中出現的「月」,結合了人情與風景,是提升美意識與情緒的重要意象,「見立て」在和歌裡的重要性不言而喻。漢詩中也有許多利用到此技法的詩句,例如杜甫的「旅夜書懷」中有「月湧大江流」;李賀的「夢天」也有「老兔寒蟾泣天色」,都是用比喻手法來以景敘情的詩句。 不僅是古典和歌,在近代詩歌中也承續了「見立て」的技法,像是啄木的『一握之砂』第384首中也有將冰雪歌詠為釧路冬月的短歌。從平安時代到中世,日本的「月」逐漸成為「雪月花」「花鳥風月」的題詠題材,「見立て」的意趣越來越強。雖然呈現出日本獨特的風雅.美意識,但其中其實也攝取了中國詩人的表現,可說有著千變萬化的面貌。 |
【政治領域】 |
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主講人:山室信一(京都大學人文科學研究所教授)
立憲主義は国家にとって、主に国家行為の暴走や危険性を排除し、民主主義の平衡を維持してくれるものであるが、最も重要なポイントは、「人権の保障」と「権力分立」の2つである。以下、時代ごとの立憲主義について見ていく。
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【文化領域】 |
近代の東アジアでは、互いを手本とし、支えあっていく中で、それぞれの文化変容が生じた。近代の200年という概念、言語、文学、旅行(移動)、文化(都市空間)という観点から、日中の文学および文化の歴史の再構成を試みる。 1810年代は近代の始まりにあたり、広州十三行の出現は、自由貿易体制の浸透を意味する。また、プロテスタントが布教のために編纂した紙媒体も、中国から日本に伝わり、近代日本語の形成に影響を及ぼした。明治時代には漢文体は、物語や造語の上で伝統的な日本語より優れていたので、当時の知識人層が西洋の新知識を得る文体となった。この漢文体によって、梁啓超は日本語で書かれた新知識をすばやく中国にもたらすことができたのである。日中の「概念」や「言語」の交流は、双方が互いに影響しあい、自己変革ができたのである。その他、この時期、国民意識が形成されるようになり、日本は中日韓に対する差別性を通して「日本」という国への国家意識を構築した。 しかし、中国も日本から、国民意識を修正する重要性を学んだ。例えば、梁啓超は日本の『太陽』という雑誌の国家水準への評価を例に、中国国民の弱さについて検討した。「文学」においては、梁啓超が小説を奨励したほか、周作人が内在概念を提起したことも近代の重要な変革の1つで、1820年代以降は、日本のプロレタリア文学の影響を受け、中国も無階級文学へと転向していった。 「移動」の面については、日本は東北・満州国問題のために、内地人がなるべく満州旅行に行くようになればと、古典を利用して中国の景勝地を見出した。これによって、中国近代の景観意識は、日本に大きく影響されることになった。また「文化」の上では、日本はロシアにならって都市広場を権力の中心とし、一種の文化的象徴を形成した。東アジアでは西洋思想受容に際し、それを西洋による「侵略」もくしは「啓蒙」という相反する評価を与えた。日本が全面的に受け入れたのと比べると、中国は自国文化との衝突のために、円滑にはいかなかった。東アジア内における「東」と「西」には、まだ多くの課題や可能性が残っているのである。 |
【宗教領域】 |
講演者:佐藤弘夫(東北大学教授)
日本の怪談話には長い歴史があるが、現在知られている話は、実は江戸時代に大量に出現した。幽霊の形成は、日本の墓および葬送儀礼の変遷や、霊魂観の転換、そして現世観・他界観の変化とかかわりがある。 中世以前の墓・葬送儀礼は近世とは異なり、墓に名前が刻まれることもなく、また家の制度も確立していなかったため、庶民層であれば、遺体は簡単な葬送儀礼を行った後、そのまま放置された。また、その頃は、先祖が死者の魂を迎えに来て他界に連れて行くと考えられていたこともあり、墓参りの習慣もなかった。中世後期になり、死者の魂は、リアリティのない他界ではなく、現世に留まり続けてほしいとの考えに変わっていった。そして江戸時代になると「家」の観念が庶民層にまで広がり、読経の声が聞こえる寺の境内に墓地を作って死者を埋葬し、定期的に供養や墓参りを行った。死者を先祖の霊として祀ったり、墓に名前を記したりするようになったのも、この頃からである。江戸時代、供養の主体が仏から人へと移り変わったことで、生者と死者の相互不可侵の「契約」が結ばれ、また生者が死者への記憶を持ち続けることがさだめられたのである。生者がこの「契約」を破った時、死者は生者との境界を越えて幽霊と化すが、近世の幽霊は仏の救済などは求めず、自ら生者へ復讐することを望んだ。江戸の幽霊話は、こうした死者の生者への復讐によって形成されたのである。 柳田国男は、古来より死者の霊魂はいつまでも身近な場所に留まっていると述べたが、実はこの霊魂観は、時代をこえて受け継がれた「日本的」な感性ではなく、時代によって変化していた。これも、比較文化論や地域論的な観点から日本文化について考える、新たな可能性のある論点である。 |
【文學領域】 |
主講人:太田登(天理大学名誉教授兼台湾大学日本研究センター執行委員)
「見立て」は、風呂敷がどんなものでも包めるのと同様に、あらゆるものをたとえることができる。目に見えない内的なものを、どのような可視的表象を用いて説明するかは、ことばや心境、形式といった問題に関わってくるほか、和歌文学の重要な要素でもある。講演では、「月」の比喩を素材として和歌の「見立て」について考える。 和歌の秀歌を精選した「百人一首」の中で、「月」に関する和歌は12首あり、月の比喩に故郷への想いや、悲恋や孤独といったさまざまな感情を託している。百人一首における「月」は、人の感情と風景とが結びついたものであり、美的感性や情緒を高揚させる重要な役割を担っている。このことから、和歌における「見立て」の重要性がわかるだろう。漢詩でも、多くの詩句でこの技法が使われており、例を挙げると、杜甫の「旅夜書懐」では「月湧大江流」、李賀の「夢天」では「老兔寒蟾泣天色」といったように、比喩の形で情景が表現されている。 「見立て」の技法は古典和歌だけでなく、近代詩歌にも受け継がれている。例えば石川啄木の『一握の砂』第384首では、氷が釧路の冬の月に例えられている。平安時代から中世にかけて、日本の「月」はしだいに「雪月花」や「花鳥風月」の題詠となり、「見立て」という趣向が強まるようになる。日本独特の風雅や美意識とであるともみなされるが、実は中国詩人の表現世界を取り入れており、多様な形があると言える。 |