台日文化交流教室(6):給年輕人的一席話—回顧我的臺日交流人生—
活動花絮
日期:2016.06.03 | 單位:臺灣大學文學院日本研究中心
   

   

給年輕人的一席話—回顧我的臺日交流人生—
日期:2016.06.03 | 單位:臺灣大學文學院日本研究中心

  2016年6月3日第六次臺日文化交流教室,日本研究中心邀請到前亞東關係協會會長彭榮次先生蒞臨演講。首先由中心副主任林立萍教授開幕致詞。彭榮次先生不僅是臺灣大學經濟系的傑出校友,更是臺日交流的重要幕後推手。此次演講彭榮次先生除了分享自身臺日交流經驗之外,也鼓勵年輕人應「擇己所愛,愛己所擇」,並珍惜每一段相遇。

  「十年河東,十年河西」,一開始彭先生便以這句諺語總結自己的臺日交流人生,也一語道盡臺灣急速的型態變遷。1940年代臺灣正值日治與光復的轉捩點,彭先生說道自己的身分認同也在此時歷經錯置與混淆等階段。

  1950年代進入白色恐怖後,臺灣一片風聲鶴唳,日本明治到大正時期「把悲憤化為美學」的自然主義文學成了彭先生的心靈救贖,也在此時點燃對日本文學的喜愛。大三時,他在因緣際會下與教育部招收的兩批日本留學生相識,這段緣份成為他人生的轉折點,並對他往後的際遇影響甚鉅。

  彭先生說道他在大學時期從法律系轉到經濟系,始終隨波逐流、虛無飄渺,但唯一不變的是對日本的熱愛。

  秉持著這份熱情,他在大學畢業後以榜首之姿進入日本首家來臺的銀行就業,並獲上級賞識,建立臺灣證券交易制度,臺日關係隨之在1960年代達到巔峰。但之後隨著臺日斷交、臺灣經濟起飛、日本泡沫經濟等等大環境丕變,臺日關係風雲變色後始終停滯不前,直到1988年李登輝總統上任後才出現了新的轉機。李登輝前總統期待再度開啟台日交流之窗,但卻毫無進展。此時彭先生當年深交的日本留學生當上外務省官員,他因此受李登輝前總統之託,參與體制外國民外交,為臺日關係再開新頁,並在推動往後的臺日交流中不遺餘力,終於在2006年安倍當上首相後功成身退。

  彭榮次先生藉由自身經歷勉勵現今年輕學子:朝著自己熱情的方向走,終能發光發熱,並教誨我們要真誠待人,重視每一段「出会い(相遇)」。

  最後的討論時間,提問十分踴躍。有來賓請彭榮次先生分享臺灣高速鐵路採用日本新幹線系統的過程;有學生詢問彭先生二次世界大戰前後身處環境變化,如何面對與調適自己的身分認同;「如何與日本人推心置腹的相處」等問題也被提出來;最後,在場聽眾想知道,在當今國際形勢下,臺灣在日本、中國、美國之中該如何自處。

  彭榮次先生回答臺灣高速鐵路採用日本新幹線系統的過程中,情資的掌握可說是其關鍵之處,自己僅是盡了微力而已。另外,臺灣人的「identity(身分認同)」從日治時期有共通語言(日語)後開始成形,光復後加入中國文化,雖然有質的改變,但至今已慢慢成熟。有關與人相處的部分,彭先生建議我們一開始姿態不應擺太低,平起平坐、不卑不亢才能交心。在面對外交的問題時,不應參雜個人喜好,應建立雙方交流機制才是正途。

 2016年6月3日、亜東関係協会前会長彭榮次氏をお招きし、第6回台日文化交流教室を開催した。はじめに本センター副主任の林立萍教授より開会のあいさつがあった。彭榮次氏は台湾大学経済系の卒業生であるだけでなく、日台交流を支えてきた重要な人物である。今回の講演では、ご自身の日台交流の経験をお話しいただいたほか、「好きなことを選び、その選択を信じなさい。一期一会を大切にしなさい」と、若者への激励の言葉もあった。

 「十年河東、十年河西(物事は常に変化する)」、彭氏はこの表現で自身の日台交流人生を振り返った。またこの表現は、台湾の急速な変化をも表している。1940年代の台湾は、まさに日本統治から台湾光復への転換期に立っていたが、彭氏自身のアイデンティティも、この時代の変化と混乱の中にあったという。

 1950年代白色テロ時期に突入し、台湾は風声鶴唳に怯えていた。明治~大正期の、悲憤を美学とする自然主義文学は彭氏の心の救いとなり、日本文学に夢中になった。大学3年時、彭氏は縁あって台湾教育部によって招かれた2名の日本人留学生と出会った。この縁は彭氏にとって人生のターニングポイントとなり、またその後の人とのめぐり合わせにも大きく影響した。

 彭氏は大学時代、法律系から経済系へ転部し、常にただ流れに身を任せてなんとなく日々を過ごしていたが、そんな中でも日本を好きな気持ちだけは変わらなかったという。

 この熱意を抱いたまま、彭氏は大学卒業後、台湾初となる日本の銀行に就職した。上からの評価も高く、台湾における証券取引制度を確立した。また、日台関係もこれにともない1960年代に最高潮を迎えた。しかしその後、日台断交や台湾経済の成長、日本のバブル経済等の環境の大きな変化の煽りを受け日台関係も停滞したが、1988年に李登輝氏が総統に就任したことで、ようやく新たな転機を迎えた。とはいえ、李登輝前総統は日台交流の窓口を新たに設置すると期待されたが、ほとんど進展しなかった。この時、彭氏と親交の深かったかつて台湾に留学していた日本人留学生が外務省に勤めていた関係で、彭氏は李登輝前総統からの要請を受け、民間での人的交流に関わり、日台関係の新たな1ページを開いた。また、その後の日台交流の促進にも尽力し、2006年の安倍政権誕生後、第一線を退いた。

 彭氏は自身の経験から学生に、「自分が熱くなれる方に向かっていけば、いつか輝ける。誠心誠意人と接し、一つ一つの「出会い」を大切にすること」と、エールをおくった。

 講演後の質疑応答の際には、学生の積極的に質問する姿が見られた。「台湾高速鉄道が日本の新幹線のシステムを採用する過程についてのお話を聞きたい」、「第二次世界大戦前後で生活や立場はどう変化したか、そして自分のアイデンティティとどう向き合い順応していったのか」、「日本人と誠心誠意付き合うにはどうしたらいいのか」といった質問があがり、最後に、「現在の国際情勢の下で、台湾は日本、中国、アメリカの中でどうするべきか」という質問があった。

 これらの問いに対し彭氏は、台湾高速鉄道が日本の新幹線システムを採用する中でカギとなったのは情報の掌握であり、自分にできることはほんのわずかしかなかったと答えた。また、台湾人の「アイデンティティ」は、日本統治時代に日本語という共通語を持ったことで形成され始め、統治から解放後、中国文化が入ってからも、質の変化はあったものの、今ではすでに確立されているという。人付き合いについては、「最初から控え目すぎてはならない。対等で、卑屈でもなく傲慢でもない姿勢で接することでこそ、心を通わせることができる。」、また外交問題に際しては、「個人のレベルだけなく、双方が交流のための機関や制度を確立してこそ、安定的かつ持続的な関係が構築される」、とそれぞれ回答した。

 聴衆に深い感銘を与えた講演であった。