日本が明治維新に成功したのは官僚の働きがあってのことであり、日本は官僚たちの手でつくられたと言っても過言ではないだろう。当時の政治家はどのような考えをもって、発展しやすいが一度失敗すると元には戻りにくいこの官僚体制を打ち立てたのだろうか。
それまでの日本社会は職業選択の自由がなく、親が子の未来を決めていた。明治新政府は全国各地の人材を集めるため、出自を問わず能力のみで評価する入試制度を設けた。大学教育を受ける機会もまた、権力者の手中から広く国民へ開放されたのである。
人材育成制度の成熟に伴い、高等教育を受けた学生が政府に対して個人の権利の拡大を求めるようになった。政府は学生の要求を緩和すべく、実際の政策において優先されるのは政治的権利の獲得であり、国家を更に良くしていくには、良い政策で社会国家を改造していくことが必要だと学生に理解させようとした。政府は官僚を大学に派遣し、実際にどのようにして政策がつくられているかを学生に教えた。憲法では試験に合格すれば誰でも軍人や官僚になれると明記されており、平等な登用制度が実施されていた。当時、政府機関で働くことは多くの学生にとって人生最高の目標であった。
国外で民主主義が高まるにつれ、日本もイタリアを模範として民意による統治を基礎とした政党政治の確立を目指すようになった。「家業」を継いだ「藩閥官僚」に替わって、次第に、大学で教育を受けた「学士官僚」が、台頭するようになった。しかしながら、大学に入って「学士官僚」にまでなれるのは、裕福な家庭の出がほとんどだった。東京で官僚になったことのある者には地方の有力者の次男や三男が多く、彼らは地元に帰った後は兄と共に働き、出馬し地方議員となる。このようにして、地域社会と政治権利が同一勢力の支配下に置かれるという現象が生まれる。一族の利益を守るために、政治は地域内で権力者によってコントロールされるものとなった。
第一次世界大戦後、各地の議員は同族勢力を制限され、同族間で利益を統合できない状況下で太平洋戦争が勃発した。第二世界大戦後は日本の政治形態は維持されたが、地方議員と総理大臣は官僚出身が中心となっている。しかし、父親の後を継いだ「二世議員」や「三世議員」等も少なくない。一族の利益を維持し、高めるべく、世襲制度はこのようにして形成されていくのである。
明治における平等登用制度の制定は、日本を成功へと導いた。しかし残念なことに、この制度は時間の経過とともに発展の終焉へと向かった。太平洋戦争勃発がその一例である。アジアで経済がバブル化した後、日本の官僚は徐々に国民の要求に応じられないようになった。より多くの若者が、身の回りの小さなことから日本をより良い国に変えるべく、努力をしていくべきである。