學術講論會19:文天祥『正氣歌』和日本的武士道
活動花絮
日期:2015.10.14 | 主辦單位:臺灣大學文學院日本研究中心
     
文天祥『正氣歌』和日本的武士道
日期:2015.10.14 | 主辦單位:臺灣大學文學院日本研究中心

  佐藤鍊太郎教授遠從日本北海道來到台灣參加研討會,本中心的徐興慶主任趁此機會邀請了佐藤教授來中心為學子們進行一場關於文天祥正氣歌和日本武士道的演講。

  朱子學在江戶時期受到幕府的獎勵,成了武士階級的基本素養。其建立者朱熹為南宋人,在北方外族威脅的時代背景下,以「尊王攘夷」為號召的民族主義思想因而萌生。禪宗「本來無一物」的思想讓武士們願意為了理想付出自己的生命。日本的武士道受到以上思想的影響,為主君盡忠義而赴死成了日本武士的理想。幕末,日本面臨前所未有的外患威脅,許多武士便為了「尊王攘夷」的理想奉獻了他們的生命。

  除了朱子學的影響之外,文天祥在獄中作正氣歌,表明自己寧可慷慨赴死,也不願向忽必烈輸誠,這樣的氣魄感動了日本武士。佐藤教授舉了藤田東湖和吉田松陰兩人為例。身為朱子學者的藤田東湖依據朱子學的尊王攘夷思想,主張尊崇日本皇室並排除外國人。他在1845年遭幕府下令謫居時,作了一篇〈和文天祥正氣歌〉。而同樣主張尊王攘夷,卻在安政大獄時遭處刑的吉田松陰在1859年從長州獄舍被護送到江戶的途中,他想起了文天祥而作了〈和文天祥正氣歌韻〉。和文天祥的正氣歌提到中國忠義人物的事蹟一樣,藤田和松陰也將日本的忠義人物寫入自己的詩中。藤田的「然當其鬱屈,生四十七人」和松陰的「赤水傳佳談,櫻留義士血」指的皆是赤穗義士的事蹟。47名赤穗義士為了替主君報仇,半夜攻進敵人家中斬落敵首,最後遭幕府下令切腹。赤穗事件是武士道的代表事件,徹底顯示了武士們為了主君不惜犧牲生命的精神。

  最後,佐藤教授話鋒一轉,提到了日本的愛國教育和日本近日強行改變和平憲法的行為。他認為讓日本青年為了愛國而上戰場送死是可悲的,應該將武士道的忠誠對象從「國家」擴展至「全人類」,致力於環境保全和人權保護,賦予其現代的意義。

  「我們都是地球人」,佐藤教授的最後這段話值得我們深思及反省。

 江戸時代、朱子学は幕府の奨励を受けて武士階級の基本的な教養となった。その創始者は南宋人の朱熹であり、北方民族の脅威という時代背景の下、「尊王攘夷」を合言葉とする民族主義思想が芽生えた。禅宗の「本来無一物」思想によって、武士は理想のために進んで己の命を差し出すことを良しとした。日本の武士道はこのような思想の影響を受け、「主君に忠義を尽くし主君のために死ぬ」ことが武士の理想となった。幕末、日本は外敵の脅威という未曾有の事態に直面し、多くの武士が「尊王攘夷」の理想のために命を捧げた。

 朱子学の影響以外にも、文天祥は獄中で「正気歌」をつくった。その中で「自分はむしろ意気軒昂と死にゆく。忽必烈に降伏したくない。」と記したのだが、この気骨に多くの日本の武士が感動した。佐藤教授は、藤田東湖と吉田松陰を例に取り上げた。朱子学者である藤田東湖は朱子学の尊王攘夷思想に基づき、日本の皇室を崇め外国人を排除すべきと主張した。彼は1845年幕府に謫居を命じられた際、「文天祥正氣ノ歌ニ和ス」をつくった。藤田と同じく尊王攘夷を主張したが安政の大獄で処刑された吉田松陰は、1859年に長州の監獄から江戸に護送される途中、文天祥作の「和文天祥正氣歌韻」を思い出した。「文天祥正氣ノ歌ニ和ス」で中国における忠義に篤い人物の事跡が挙げられているのと同様に、藤田と松陰もそういった日本の人物を自身の詩に登場させている。藤田の「然當其鬱屈,生四十七人」と松陰の「赤水傳佳談,櫻留義士血」は、いずれも赤穂義士の討ち入りのことを指している。47人の赤穂義士が主君の仇討のため、夜中敵の館に攻め入りその首を取ったが、最後は幕府の命で切腹となる。この赤穂事件は武士道の代表的な事件であり、主君のためなら命をも惜しまないという武士の精神を体現したものである。

 最後に佐藤教授は、日本の愛国教育と平和憲法改正を強行するという行為について、「日本の若者を「愛国」のために戦争に送り死なせるのは悲しいことだ。武士道で忠誠を誓う対象を「国家」から「全人類」へとひろげ、環境保全と人権保護に尽力し、その現代の意義を与えるべきだ」と述べた。

 「我々はみな地球人」―講演の最後のこの部分は、私たちにとって深く考え反省する機会を与えてくれた。