日本の江戸時代(1603~1867)と明治時代(1868~1911)は、ほぼ中国の清朝時代(1616~1912)には相当する。日本を支配した徳川幕府は、統治初期より「鎖国」体制を堅持し、外国への渡航を厳禁した。しかし長崎港でのオランダと中国との貿易は認め、永きにわたり中国船とオランダ船が長崎に貿易に来航し、とりわけ多くの中国船の来航による中国商人との貿易が持続された。
江戸時代の長崎は、徳川幕府の直轄地“天領”であったため江戸の幕府から派遣された長崎奉行により統治されていた。その長崎市中の人口は、寛文十二年(1672)頃に約40,000人、元禄九年(1696)には60,000人を超えたが、その後減少し30,000人弱で幕末期を迎えたとされ、長崎の人口は江戸時代を通じてほぼ5万人前後で推移したと見られる。とりわけ元禄元年(1688)頃の長崎市中の住民がほぼ50,000余であった環境に、臨時的とは言え一年間に9,000人を超える人口増加があった。その要因は長崎貿易に来航した中国船の乗員が上陸したためである。
長崎に来航する中国人は、元禄元年以降の徳川幕府による貿易削減政策によって減少を続け幕末には1年を通じて数百名を下回る状況になる。しかしこれらの中国人は数箇月の長崎滞在であったとは言え、様々な異文化を江戸時代の日本にもたらした。それを求めて長崎を訪れた日本人も多かった。そこでこのような江戸時代の長崎での日本と中国との文化交流について述べたい。