戦争を文学の視角から考察することは、個人の経験と記憶がどのように歴史化され公共化されるかという過程を検証し、個人の経験が公共の記憶の記述に回収されていくことに抗う可能性はどこにあるのかと問いかけることを避けては通れない。文学の創作は時として個人の経験を歴史化し公共記憶化する権力装置の中に貢献してしまう。それを如実に示した一例が日本文学の場合、アジア太平洋戦争における詩と放送メディアとの癒着であったと言えよう。このことは日本の近代詩が歩んできた〈書記〉(エクリチュール)と〈音声〉(オーラリティ)の相剋の歴史に一つのピリオドを打つ意味を持っており、それは日本の詩がその成立の時点から内包していた帰結点であったとも言える。と同時に、詩と文学は単に個人経験を集団性や公共性の中に回収する装置としてのみ機能したわけではなかった。そこには〈私〉が〈公〉に抵抗する可能性も潜在していたはずだからである。今回の講演ではアジア太平洋戦争における戦争詩の流通と受容のシステムについて説明しながら、それに先立つ中日戦争の詩歌の表現をも対照させながら、以上のことについて概説を行う予定である。