台日文化交流教室(4):臺灣與日本–從旅居臺灣作家的採訪筆記出發
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活動花絮 |
日期:2015.12.04 | 單位:臺灣大學文學院日本研究中心 |
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台日文化交流教室4:臺灣與日本–從旅居臺灣作家的採訪筆記出發 |
日期:2015.12.04 | 單位:臺灣大學文學院日本研究中心 |
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日本人經常把「日本在臺灣做了哪些建設」掛在嘴上,但其實我們也該注意的是「日本從臺灣學到什麼」才對。臺灣人的民族性在於毫不拐彎抹角、直率地對待好奇的外國人,並盡可能地幫助他們達成心願。我雖然已在臺灣住了十八年,但對任何事物仍舊感到新奇,想要去了解。我建議大家隨身攜帶一本「我的臺灣筆記」,將在當地感受到的事物全部記錄下來。過幾年後,重新閱讀這本筆記,一定會有許多新的發現。
今天,我想簡單地用以下幾點與各位分享我在臺灣的新發現:
- 臺灣的木造火車站
臺灣至今仍保留了幾座日式火車站,像是新竹火車站。但仔細觀察後還是能發現許多臺灣獨有的特點。
例如:為了預防熱帶常見的傳染病,而將廁所設置在車站外面;此外,臺灣並沒有瓦片文化,也沒有能製作的老師傅,反而造就能夠大量生產 的水泥瓦片技術先於日本。
- 臺灣芝山巖–日本人最早接觸的外國人–
臺灣是日本因國際條約獲得的第一塊新領土。為治理這塊新領土,日本訂定安定治安、改善衛生、普及教育三個目標。無論是日語教育或外語研究,對日本來說都是第一次的經驗。在芝山巖任教的平井數馬先生是日本史上最早教外國人日語的教師,同時也編輯日語教材。外國語研究的濫觴可謂為此。
- 開山神社(延平郡王祠)–祭祀鄭成功的神社–
開山神社是日本首座外地神社,也是首座祭祀外國人的神社。雖然日本人曾利用鄭成功來鞏固對臺灣的統治,但當地的觀光導覽沒有提到這件事,許多遊客儘管到訪過卻不知道這段歷史,甚為可惜。
- 「臺南銀座」與都市計畫–新世代建築家的挑戰–
臺南市中正路在日治時代被稱為「臺南銀座」,是由梅澤捨次郎這位年輕建築師所設計的商店街。一般在內地(日治時期對日本本地的稱呼)的年輕建築師欲嘗試這樣的設計,在年資的限制下並非易事。然而正因臺灣是一塊全新的領土,年輕建築師們也才有機會得以嘗試並獲得成功。
- 台北市的都市計劃與後藤新平–人才培育的關鍵–
日治時期的民政局長後藤新平在縱貫鐵路開通時曾表示這全是長谷川謹介工程師的功勞,他不過是發掘優秀人才並給予他們發揮所長的機會。當時的臺灣就是一塊能讓優秀人才施展身手的最佳舞台。
此外,近年來台進行校外教學的高中生急速增加,今年預估將突破三萬人。對於外國人而言,臺灣的魅力在於對異國文化高度的包容性及在地人的「鄉土愛」。在東日本大震災時,來自臺灣的捐款高達兩百億日圓,我認為這是基於以下六個背景:
- 台日間的友情–「臺灣和日本不是毫無相關的陌生人」
- 「報恩」–難忘921大地震時,日本迅速救助的恩情
- 相互扶持的精神–日常生活中的互助和善行
- 基於堅定信念的行動–不因環境、言語、他人而有所動搖
- 兩國文化、經濟、社會的連結–唇亡齒寒的合作關係
- 擁有共同感受的「心」與「絆(きずな)」–看不見的情誼連繫
最後,希望大家能更愛臺灣,珍惜自己想認識臺灣的心情。現今社會已太過忙碌,經常忙到遺忘自己到底該做些什麼。各位如果找到了自己想做的事、想研究的主題,千萬不要輕易捨棄,隨時隨地培養自己的感受力,竭盡全力去吸收新知,相信這樣的心情,會引領我們了解更廣闊的世界。
問題與討論:
- 請問片倉先生日後將進行什麼樣的活動?
我曾到世界各地去旅行,但臺灣人的熱情是最令我印象深刻的。就寫作而言,臺灣也提供了我許多題材。最近我開始著手原住民的題材。雖然日本出版業界目前相當不景氣,至今仍難以出版相關書籍。但有鑑於採訪對象也逐漸年老,為免為時已晚,我依舊繼續努力當中。
- 片倉先生提到了許多臺灣人的優點,想請問是否也有令人困擾之處?
至於困擾之處,臺灣人的過於親切有時令我難以招架。另外,臺灣人有大而化之的特質。雖然臺灣人之間熟悉彼此性格不至於得罪對方,但與外國人相處時則易造成不快。不過說是缺點,我倒覺得要看如何拿捏,像我在臺灣待久了,反而有時也覺得日本人過於吹毛求疵,雖然這也可說是日本人的強項。最後有一點想提的是,臺灣洗手間的清潔度實在不敢恭維,但這數年來也好多了。
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2015年12月4日、片倉佳史氏をお招きし、第4回台日文化交流教室を開催した。台湾在住18年の片倉氏は、「台湾と日本―台湾在住作家の取材メモから」と題し、これまでの台湾生活や取材・執筆活動の中で感じた台湾の魅力についてユーモアたっぷりに語った。
開会に先立ち、本センター副主任の林立萍教授が「日台双方の共通認識や理解を深めるべく今回この会を開催し、片倉先生からご自身のご経験を通して知った台湾の魅力を語っていただける機会を設けることができて大変嬉しい。」と述べ、その後辻本雅史教授による片倉氏の紹介を経て、片倉氏のご講演へと移った。
- 台湾の魅力の中で際立っているもの
日本人はよく「日本が台湾に何をしたか、何を残したか」と言うが、むしろ「日本が台湾から何を学んだか」という点に注目すべきである。何かを知りたい外国人を真正面から受け止め、望みをなんとか叶えようとしてくれる―――これが、台湾の民族性だと考えている。
- 「旅」って何だろう?
台湾に18年暮らしていても旅の感覚は消えない。日台双方の交流はとても大切。旅行に行く時は「私の台湾ノート」と題した1冊のノートを携え、現地で感じたことを全てメモすることを勧める。これを何年か後に読み返すといろいろな発見がある。
- 台湾の木造駅舎
新竹駅など日本式の駅舎はいくつか残っているが、実際は随所に台湾らしさが表れている(例:トイレは駅舎の外にある=熱帯病への畏れ)。
- 芝山巌(しざんがん)~日本人が最初に接した異国人~
台湾は日本が国際条約で得た最初の「新領土」。まず、治安の安定・衛生事情の改善・教育の普及の3点から取り組んだ。日本語教育も外国語研究も、日本にとっては「初体験」だった。
- 開山神社(延平郡王祠)~鄭成功を祀った神社
日本最初の外地神社であり、かつ日本で最初に「外国人」を祭神とした神社である。日本人は鄭成功を統治に利用したのだが、観光で訪れてもこういった視点からの解説はないため、多くの旅行者は何も知らずに通り過ぎてしまう。
- 「台南銀座」と都市計画~若き建築家たちの挑戦
台南市中正路は日本統治時代「台南銀座」と呼ばれていたが、ここは梅沢捨次郎という若手技師が設計した商店街。通常若手が能力を発揮するまでに日本内地では20年はかかるが、新領土台湾では早くに才能開花が可能となった。
- 台北市の都市計画と後藤新平~人材が育つために必要なもの
後藤新平は縦貫鉄道全通時、「全ては技師長がやった」と答え、自分は優秀な人材を見出し、チャンスを与えることで才能を発揮させただけとした。このように、台湾は若くて優秀な人材が能力を発揮できる土地であった。
- 現代台湾事情
台湾には外国人を深い部分まで受け止めてくれる許容性があり、外国人を惹きつけるのもまた、地元の人々の「郷土愛」である。近年修学旅行で台湾を訪れる日本の高校生が激増し、今年度は3万人を突破する見込みである。
- 東日本大震災の復興支援について考える
200億円におよぶ台湾からの義援金の背景には、次の6つがあると考えられる。
① 日本への親近感・友情―「もはや日本と台湾は他人ではない」
② 「恩返し」―果たして何の恩返し?
③ 相互扶助の精神―日常的に行われる助け合いと善行
④ 主体性に基づく行動―「ぶれ」がない人々
⑤ 両国の文化・経済・社会の結びつき―共倒れもありえるほどの強い関係
⑥ 共感できる「心」と「絆」―目に見えないつながり
- 李登輝元総統のインタビューから
日本民族は目に見えない抽象的な概念を共有し、それに従って動くことができる。ルールを守り、常識と良識を培い、社会を成り立たせている。
台灣大学の学生たちへのメッセージ:
- 台湾を好きな気持ちをどんどん磨くことで、他の国のことも見えてくる。
- 知りたいと思ったことへ素直でいること。純粋な気持ちを大切に。
- 体が壊れる一歩手前まで勉強した方がいい。
講演後には活発な質疑応答がなされた。以下はその一部である。
- 今後どのような視点で活動していくのか。
色んな国を旅したが、やはり台湾は際立って人がいい。台湾はネタの宝庫だと思う。今後は年配の方々への取材をもっと増やしていきたい。
- 台湾で困っているところはありますか。
親切すぎるところや、「ツメが甘い」ところ。台湾人同士であれば問題ないが、外の人間と接するときはトラブルになりやすい。(例:遅刻)
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